月別: 2017年8月

アメイジング・グレイス

聖書のみことば:エペソ2:1-10

罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。—ローマ5:20

ジョン・ニュートンは18世紀の人で、父と一緒に商船で海に出ていました。父が引退したあと軍艦勤務を強要されましたが、耐えられなくなって逃げ出し、アフリカに向けて出航することになっていた奴隷船に乗り込みました。

彼は、冷酷にも人身売買を生業にし、ついには自ら奴隷船を持って船長になりました。ところが1748年5月10日、彼の人生は全く変わりました。その日、彼の船は恐ろしい暴風雨に遭遇しました。そして、船が今にも沈没するというとき、ニュートンは大声で「主よ、あわれんでください」と叫んだのです。

その夜、ニュートンは船室で神のあわれみについて深く考えました。自分のためにキリストが犠牲になられたことを信じるに至って、神のアメイジング・グレイス(驚くばかりの恵み)を個人的に体験しました。やがて彼は奴隷交易から身を引き、キリストを教える働き人になりました。ジョン・ニュートンは牧師になりましたが、それ以上に、多くの人に愛されている賛美歌「アメイジング・グレイス」の作者として知られています。この賛美歌は、彼の驚くべき経験の告白です。

聖霊は、私たちに罪を自覚させ、それを捨て去る力をくださいます。キリストを救い主として心に迎えましょう。そうすれば、自分ではできないことも、主の力によって成し遂げることができます。それが「アメイジング・グレイス」です。

神は愛される資格のない人を、ご自身の恵みによって自分のものとして愛される。

イエスの愛

聖書のみことば:ヨハネ19:17-24

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。—ヨハネ3:16

あまりないことですが、一日に3度同じ歌を聴きました。まず、昼過ぎに高齢者施設の合唱クラブに出席しました。祈って集会を終わろうとすると、入所者のウィリーが、「『主我を愛す』をいっしょに歌ってください」と言いました。夕方にはユースグループの集会に出席しました。そこで青年たちは、手拍子をしたり、足を打ち鳴らしたりして同じ曲を歌いました。その夜遅く、携帯電話にメールが届きました。メールには添付ファイルがついていて、それを開くと、2歳半になる姪の娘が可愛い声で「主は強ければ、我弱くとも…」と歌っていました。その日、90代、10代、そして幼児が、ひとつの歌を歌っていました。

このシンプルな曲を3回も聴いたので、神は何か伝えようとされているのかしらと、ふと思いました。実際、「私はあなたを愛している」というメッセージを、神はずっと昔にくださいました。ヨハネの福音書19章には、主イエスは人々にいばらの冠をかぶせられ、あざけられ、打たれ、裸にされ、十字架につけられたとあります(1-6節)。イエスにはそれを止めさせる力がありましたが、黙っておられました(11節)。私たちの罪の代価を払い、私たちを永遠の滅びから救うためです。愛のためにそうなさったのです。

神はどれほど私たちを愛しておられるでしょう。イエスはご自分の腕を広げ、十字架につけられました。私たちのために死なれ、よみがえられました。この愛をあなたも受け取りませんか。

神の愛を正確に計ろうとすると、それは計りきれない、ということが分かる。

罪は赦された

子どもの頃、友だちを誘って近所のギフトショプに行きました。すると彼女は、クレヨン形の髪留めをつかんで私のポケットに押込み、店の外に引っ張り出したのです。私は罪の意識に一週間苦しみ、ついに母に泣いて打ち明けました。私は友だちに逆らえなかったことを後悔し、盗んだ品物を返して謝り、二度と万引きをしないと誓いました。店の人は二度と来るなと言いましたが、母は赦してくれました。過ちを正すために最善を尽くしたと母が言ってくれたので、私は安心して床につきました。

天国からの癒やし

聖書のみことば:Ⅱコリント1:1-10

慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。—Ⅱコリント1:3

トマス・ムーアはアイルランドの詩人であり、作詞家、そして歌手です。多くの人たちが彼の歌を聴き、また歌いました。彼の才能は、多くの人たちに喜びを与えました。しかし悲しいことに、彼の生活は、5人の子ども全員に次々と先立たれるという不幸に見舞われ、とても困難なものでした。ムーアの賛美歌は、「なやむものよ、とく立ちて、めぐみの座にきたれや。天のちからにいやしえぬ、かなしみは地にあらじ」(讃美歌399番)と語っていますが、彼の心の痛みを思うとき、この言葉は一層重みを帯びてきます。心に響くこの歌詞は、祈りの中で神にお会いするならば、私たちの痛んだ心も癒やされていくことを思い出させます。

使徒パウロは、コリントのクリスチャンたちに次のように書きました。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」(Ⅱコリ1:3-4)。彼もまた、天の御父が傷ついた心を慰めてくださると知っていました。しかし、私たちは時として、自分の悲しみにとらわれてしまって、そればかりを見つめるので、慰めてくださるお方を遠ざけてしまいます。私たちは思い出さなければなりません。神の慰めと癒やしは、祈りを通して与えられます。

神に思いのたけを打ち明けるなら、心に平安が与えられます。そして、傷ついた心が少しずつ癒やされていきます。「天のちからにいやしえぬ、かなしみは地にあらじ」。まさに、そのとおりだからです。

祈りは、希望と癒やしが育つのに最適の土壌だ。

計画の変更

聖書のみことば:箴言16:1-9

人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。—箴言16:9

それは1818年のクリスマスイブ、オーストリアの村、オーベルンドルフの教会で起こりました。副牧師のヨゼフ・モールはイブ礼拝用にと新しい賛美歌の歌詞を書き、オルガン奏者のフランツ・グルーバーがメロディーをつけました。ところが、教会のオルガンが壊れてしまいました。グルーバーは急きょギターを手に取り、モールの歌の伴奏をしました。これが世界で最初の「きよしこの夜」の演奏でした。

話はこれで終わりません。壊れたオルガンを修理するために来た修理人は、グルーバーが試し弾きしたその曲を大変気に入り、楽譜の写しを自分の村に持って帰りました。村では、手袋職人の四人の娘がその歌を覚え、その地方のいたるところで開かれたコンサートで歌いました。オルガンの故障のおかげで、新しいクリスマス・ソングはオーストリア中の人々の祝福となり、やがては、世界中の人々に祝福を与えるようになりました。

物が壊れたり、計画が変わったりするとき、どう対応すべきでしょう。望むように物事を進められないと、私たちはいらいらして心配しがちです。そんな時こそ、自分は後ろに下がって、神を信頼しましょう。そして、神がご栄光のためにその状況をどう用いられるか、見届けるまで待ちましょう。私たちの人生に見られる変更は、「きよしこの夜」のような素晴らしい結果を世界にもたらさないかも知れません。しかし、神が全てを支配してくださっているおかげで、すべてが静かで、すべてが輝いていると確信できます。

人生というドラマでは、神が見えない監督だ。

収穫のために色づいている

夏の終りに英国のニューフォレストを散歩し、近くで馬がたわむれるのを見ながら野生のブラックベリー摘みを楽しみました。昔々、誰かが植えたであろう甘い実の味を堪能しながら「わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました」(ヨハ4:38)というイエスのみことばに思いを馳せました。

静まりなさい

ダニエル・レヴィタンは、著書「頭の整理-情報過多時代の正しい考え方」の中で、人類がこの5年間に生み出した情報は、それ以前の情報の総量を超えていて、洪水のように向かって来ると語ります。また、私たちは過度の刺激を求める中毒にかかっているとも述べています。人の心は、色々なメディアから炸裂する情報や知識によって支配されがちです。絶え間なく情報があびせかけられる今日の状況の中で、静まって考えたり、祈ったりすることは、益々困難になっています。

神が現れた

高齢で亡くなった元帰還兵の告別式で、故人は今どこにいるでしょうと牧師が問いかけました。ところが彼はどうすれば神を知れるのかについて語らず、聖書とは無関係の話をしました。私は思いました。それでは、どこに希望があるのか…。

悲しみから喜びへ

ケリーの出産は異常分娩になりました。しかし大変な難産の末、無事に産まれた息子を抱くと、彼女は痛みを忘れてしまいました。苦しみが喜びに変わったのです。